どうして今日は深川不動尊に来たんだろう。
おいしいカレーを食べるために来たはずなのに、
私が本当に呼ばれていたのは、別の場所だったのかもしれない──。
そんなことを思った、小さなプチ旅の記録です。
友人からのランチが“導きの入口”だった
きっかけは、友人からの「ランチ行かない?」というお誘いでした。
連れて行ってもらったのは、深川不動尊の近くにある、おいしいカレー屋さん。
スパイスの香りがふわっと立ちのぼるカレーを食べながら、
「せっかくここまで来たんだし、ちょっとお参りして帰ろうかな」
と、ふと思ったんです。
友人は用事があって先に帰ることになり
私は一人で深川不動尊の境内の中へ向かいました。
この時点では、まさか心の中の“欲しい”が書き換えられるなんて、思いもしませんでした。
炎と太鼓の音が、音楽みたいに聴こえた
境内に入ると、ちょうどお焚き上げが始まっていました。
せっかくだからと中に入って参加してみることに。
目の前では炎が勢いよく立ち上がり、
太鼓のリズム、鈴の音、お坊さんの唱えるお経の声が、空間いっぱいに響いていました。
それはただの儀式というより、
とても完成された“音楽”のようなミュージックに感じられて。
昔、娯楽の少なかった時代には、
きっとこの音と炎が、人々の心を高鳴らせ、
日常から少し離れた場所へと連れていく役割を果たしていたのだろうな…と、
ぼんやり考えながら、その様子を眺めていました。
説明文を読んだ瞬間、“欲しい”がスッと消えた
お焚き上げが終わったあと、
お寺の中をゆっくりと歩きながら、いろいろな仏像を見て回りました。
その中で、不動明王の前に立ち止まり、そばに書かれていた説明文を読んだんです。
そこには、こんな意味のことが書かれていました。
「背中の火炎は、自らの煩悩を焼き尽くす様子とも言われており、清い心を取り戻すことをあらわします。」
その一文を読んだ瞬間、
「あ、私、だから今ここに来ているんだ」と、スッと腹に落ちました。
というのも、前日までは私はずっと、
「今年は新しいコートが欲しいな」「ボアベストも欲しいな」
と、頭の中が「欲しいものでいっぱい」だったんです。
でも、不動明王の説明文を読んだとき、
なぜかその「欲しい欲」が、ふわっと消えていきました。
物欲を我慢したとか、頑張って抑えたという感じではなくて、
「あ、もう、今じゃなくていいや」と、自然に力が抜けたような感覚。
ああ、きっと私は、
“焼き尽くしてほしいのは、物そのものではなく、そこにくっついている執着だったんだ”
と、静かに気づきました。
執着を手放したあとにやってきた、深い眠り
お参りを終えて外に出ると、
参道にはおいしそうなお店がいくつも並んでいました。
その中で、どうしても気になってしまったのが、さつま芋のたい焼き。
さきほど不動明王の前で、コートへの執着は手放したはずなのに、
「これは今日のごほうび」ということにして、お芋のたい焼きをひとつ買い、お店で食べました。
そして帰り道、電車に乗った瞬間から、ものすごい眠気がどっと押し寄せてきて。
気づいたら、ほとんど爆睡状態で帰っていました。
きっと、頭や心の中でガチャガチャ動いていたものが、
お焚き上げと不動明王の火炎イメージのおかげで、
少し静かになったのかもしれません。
翌朝は、びっくりするくらいスッキリ起きられて、
「あ、昨日のあの時間で、何かがリセットされたんだな」と感じました。
まとめ:手放すタイミングは、自分では選べないのかもしれない
今回の深川不動尊へのプチ旅は、
「ランチのついでに寄っただけ」のはずでした。
でも終わってみると、
「欲しい」にくっついた執着を、そっと手放すきっかけをもらった一日だったなと感じています。
頭で「手放そう」と決めても、うまくいかない時もあるけれど、
場の空気や、音、祈り、言葉に触れることで、
自然とほどけていく執着もある。
きっと、手放すタイミングは、
私たちが「よし、今から捨てます!」と決めるというより、
どこか見えないところでそっと用意されているのかもしれません。
今回の体験を通して、
「欲を無理に消そうとしなくてもいい。
ただ、今の自分に必要なものだけが残っていくんだ」
そんなふうに思えるようになりました。
そしてまた、ふとしたタイミングで、
どこかのお寺や神社に呼ばれる日が来るのかもしれません。
そのときはまた、小さな“手放しの旅”を楽しもうと思います。

